第6回
完璧の先
ロンドンのジャパン・ハウスで開かれた木工の展示で、ある組子の衝立を見た人はこのように記した。
「親方が一年以上かけて作ったらしい。あまりの美しさに、ただ立ち尽くして長いこと見つめていた」
7千を超える反響が、この短い言葉に寄せられていた。立ち尽くすという表現が、私には印象的だった。彼を釘付けにしたのは、派手さや豪華さではなかった。釘を一本も使わず、木と木が寸分の狂いもなく組まれる精度だった。
なぜ、こんなに複雑な継手を?
日本の木工に触れた海外の人が、最初に抱く問いがある。なぜこんなに手間のかかる継手を使うのか、と。
ある人は、問いの後に自分なりの解釈を書いた。
「以前は、なぜこんな複雑な継手をいちいち作るのか分からなかった。実は、留め具(ネジや釘)の代わりに継手を使うと、木材全体が一つのまとまりとして動けるようになり、割れや破損を避けられるんだ」
これは、機能美という言葉の最も正確な説明のひとつだと思う。日本の継手は、美しく見せる目的で複雑に構成されているのではない。木材という、湿気と乾燥で伸縮する「生きた素材」と長い時間をかけて付き合うために生まれた工夫なのだ。美しさは、結果として後からついてくる。
海外の反応を読んでいると、日本工芸の機能美をしばしば自動車にたとえる声に出会う。よく走るために設計され尽くした車は結果として美しい、と。
もっと本質を突いた言葉もある。ある日本の大工は、自分の仕事を「meticulous(綿密)」と褒められて、こう返していた。
「綿密? これはただ、職人としての誇りだ。これは失われつつある技術で、師匠はその達人だ」
ここには重要な区別がある。外から見れば「異常なまでの綿密さ」に見えるものが、作り手からすれば当然の「誇り」でしかない。完璧を目指しているのではなく、手を抜かないことが当たり前なのだ。海外のある人は、これを日本社会全体の傾向として捉えていた。「日本人は、何においても近道をせず、けちらず、手を抜かない」
専門家たちの厳しい目
機能を語る記事には、もう一つ見逃せない層がいる。技術を正確に理解している専門家たちだ。
刀の製鉄を扱った科学動画には、こんな訂正コメントがついていた。「18分20秒に小さな誤りがある。フェライトとセメンタイトの組み合わせはパーライト(Pearlite)であって、パーライト(Perlite)ではない。後者は火山ガラスで園芸に使うものだ」。別の動画では、「精密に切り出された一枚だと思われがちだが、実際は二つの異なる部品を、ほぼ完璧に合わさるよう綿密に作っている」と、誤解を正す声があった。
少々細かすぎる指摘に映るかもしれない。私はここに、日本工芸が海外で得ている信頼の質を見る。正確さを尊ぶ人々が正確に見ようとしている。「何がどう優れているのか」を事実として知りたがっている。だからこそ、機能を語るときは作り手の側も正確でなければならない。
用の美は概念にならない
前章で、私は wabi-sabi が概念として消費されやすいことを書いた。一方、機能美は概念になりにくい。機能は嘘をつけないからだ。組子が一年かかるのはそれだけの精度が要るからであり、継手が複雑なのは木の動きを受け止めるためだ。そこに、解釈の余地はあまりない。美しいかどうかは見る人の感性に依存するが、噛み合うか噛み合わないかは、木が決める。
これは、海外の人々にとって、ある種の安心感をもたらしているように見える。wabi-sabi のように「分かる人にだけ分かる」美ではなく、誰が見てもその精度が、その手間が、はっきりと伝わる。立ち尽くした彼が見ていたのは、解釈を必要としない美──用のために極められた、虚構のない美だったとでも言うべきだろうか。
完璧の先。それは、完璧を装飾として目指した先ではなく、機能を限界まで突き詰めた自然な帰結として存在する。
次回予告 (第7回)
「なぜ Nakaya は"グレイル"と呼ばれるのか」
海外の万年筆コレクターたちは、ひとつの工房を"たどり着くべき場所"「グレイル(一生もの)」として語る。一人の作り手、ひとつの工房が、どうして世界中の憧れの対象になったのか。作り手がブランドになるとき何が起きるのかを読み解く。