第3回
藍と消えない色
母から受け継いだ藍染めのジーンズについて、こんな書きこみがあった。
「再現できない色だ。色褪せない。明るくなっていく──とても滑らかで、芸術的な仕方で。この染めは本当におすすめ。生地の手触りまで変わる。柔らかくなるというより、しなやかになる、という感じ」
「褪せるのではなく、明るくなっていく」色。これは、化学的に染められた青が決してたどらない経年変化だ。海外のファッション愛好家が日本の藍に惹かれるとき、その根にあるのは、しばしばこうした「時間とともに変わっていく色」への憧れである。
化学染料への静かな疲れ
今、天然の色が求められている。
背景には、安価で均一な化学染料への飽きと疲れがある。前回までに触れたが、海外のファッション議論では、ファストファッションへの倦怠が繰り返し語られている。すぐ褪せ、すぐ飽きられる色。それに対して、藍は使い込むほどに表情を変え、持ち主とともに年をとる。
母校の染色の授業で藍に出会った経験の書き込みも見受けられた。古着の木綿を14インチに裂き、藍で染め、刺し子を施してベッドカバーを作った。「藍が布を染めていく、あの仕方が大好きだ」。色を自分の手で生み出す経験。藍は、見る行為から作る行為へと、人を引き込んでいく。
chemical を「悪」と決めつけるな
ここでひとつ、立ち止まりたいコメントがある。
天然染料を称える動画に、このようなコメントがあった。「本物の藍だって化学物質(chemical)だ。自然に存在する化学物質だ。あなたが言いたかった言葉は『合成(synthetic)』だろう。chemical を蔑称として使うのはやめて、正しい言葉を使ってほしい」
的を射た指摘だと思う。「天然は善、化学は悪」という二分法は、心地よいが正確ではない。藍の色を生むのも化学反応である。
天然染料を扱った人なら知っている。同じ植物でも、水に加える媒染剤(mordant)──鉄、ミョウバン、錫──によって、出てくる色はまるで変わる。ある人は、それらの中には毒性があって入手しにくいものもある、と書いていた。もっとも、藍はその例外で、媒染を使わず還元と酸化で繊維に色を定着させる「建て染め」に属する。媒染を要する草木染とはそもそも色の入り方が違う。
いずれにせよ、天然の色は決して「自然がただ与えてくれるもの」ではない。人間が長い時間をかけて自然と対話しながら引き出してきた、技術の結晶なのだ。
色の背後にある無数の工程
藍をめぐる海外のコメントを読んでいると、色そのものの背後にさまざまな時間が折り重なっているのが見えてくる。
藍が自分の州で1700年代から作られてきたとコメントした人。ミャンマーには藍の植物が豊富にあるのに、染料としての使い道はもう誰も知らず、伝統薬としてだけ残っている、と教えてくれた人。藍は日本だけのものではない。世界中のそれぞれの土地で、それぞれの歴史から育まれてきた。
日本の藍が特別とされるとしたら、その技術がいまも生きて受け継がれているからだろう。藍を染めるために日々研究を重ねる日本の職人に「敬礼する」とのコメントもみられた。藍の色をつくることが毎日の仕事として継承されている。それ自体、世界的に見れば稀なことなのだ。
染めの手触り
「サステナブルな天然染料」という概念に惹かれ、藍にたどり着いた人は多いだろう。
一方、その概念の先にあるのは、エシカルなライフスタイルの記号ではない。藍を建て、布を浸し、空気にさらし、また浸す──反復のなかで、ようやく現前する一度限りの色だ。同じ藍は二度と生み出せない。だからこそ、藍で染められたものは、工業製品の均一な青とは別の存在になる。
藍の色は、時間と手と化学によって生み出される「出来事」だ。あなたが惹かれた「消えない」色は、いまも染め継がれ、生きた技術の上に咲いている。
次回予告(第4回)
「Wabi-sabi は美学ではない」
インテリアの形容詞として消費される wabi-sabi。だが、それは本来、ものを作り、使い、朽ちさせる「態度」のことだった。