第2回
ニセモノの金継ぎ
世界中で愛される、kintsugi(金継ぎ)。
あるミュージシャンの楽曲に、こんなコメントがついた。「あなたの音楽は、まさに金継ぎだ。私の魂の壊れた破片を、すべて繋ぎとめてくれる」。別のどこかでは、誰かがこう書いた。「私たちは金継ぎのようなものだ。一度壊れて、より強くなる。傷こそが、私たちを美しくする」。
これらの言葉はなんて尊いのだろう。金継ぎは、壊れた部分を丁寧に繋ぎあわせて金で飾り、history(来歴)の一部として受け入れる──そういう哲学として、海外に根を下ろしていることが伺える。
そして悩ましいことに、この尊い金継ぎの看板を悪用した「ニセ金継ぎ」が蔓延っているのである。
「これは本当の金継ぎではない」
人気の金継ぎのハウツー動画に、日本人がこう書き込んだ。
「私は日本人です。本物の金継ぎには、レジンではなく漆を使います。漆で接着して一ヶ月乾かし、その上に金粉を蒔く。天然素材だから安全だし、この動画のものより、ずっと表面が滑らかになります」
別の動画には、こんなコメントがあった。「仕上がりは美しいかもしれないけれど、本物の金継ぎとはまるで違う」。さらに別の人は、はみ出したエポキシの醜さを指摘していた。「最も美しい金継ぎの線は、陶器と段差がなく仕上げられ、こんなに太くないものなのに」。
そう。技術の優劣の話ではない。ニセ金継ぎの登場である。エポキシ接着剤と金色の塗料で簡単に再現できる「金継ぎ風」のキットを生み、それが本物の顔をして流通している、という現実である。
本物の金継ぎとニセ金継ぎの違い
本物の金継ぎと「金継ぎ風」の決定的な違いは、そこにかかる時間にある。
ある人が、金継ぎの映像を見て涙したと書いていた。「漆が硬化するのを待ってからでないと金を蒔けない、という部分にやられたね。本当に時間がかかるんだ」。
漆を接着剤として使い、乾燥を待って、さらに漆を塗り、待つ。一ヶ月という時間をかけてようやく、金を蒔く段階に至る。エポキシなら数時間で固まるが、この時間こそが本物を本物たらしめている、と海外の目には映るようだ。
異なるのは、完成までの時間だけではない。天然の漆は食器に使用されても安全だが、レジンやエポキシで継いだ器は、人体に悪影響を及ぼすおそれから、食器としては使えないことが多い。
概念は罪ではない、けれど
誤解しないでほしいのは、金継ぎを人生の比喩として愛する人々を、否定したいのではない。傷を受け入れる、壊れても繋ぎ直す──その思想に救われる人がいるなら、それは尊いことだ。
問題は、概念があまりに美しく旅をするために、その概念を支えている実物の技術が、見えなくなってしまうことにある。「壊れて、より強くなる」という言葉に何千もの共感が集まる一方で、漆を一ヶ月乾かす職人の手は、ほとんど語られない。
自分で壊れたカップを直した人が、正直にこう書いていた。「金色の塗料を接着剤に混ぜて、壊れた部分が全部見えるようにした。いわば自家製の金継ぎ、それもかなりひどいやつ」。この正直さは、むしろ好ましい。彼は、自分のしたことが本物の金継ぎとは違うと、ちゃんと分かっている。本当に危ういのは、違いを知らないまま「本物」として売られ、買われていく場合だ。
金継ぎという言葉に惹かれ、この文章にたどり着いた人がいるかもしれない。もしそうなら、覚えておいてほしいことがある。
あなたが愛している「壊れたものを受け入れる哲学」は、本物だ。けれど、その哲学を物として体現するには、漆という素材と、一ヶ月という時間と、何世代にもわたって受け継がれてきた技術が要る。哲学は無料だし、世界中どこへでも飛んでいける。それを実現する技術は、重くて、遅くて、そして──いまも、人の手によって続いている。
概念としての金継ぎを愛するなら、ぜひ一度、本物の金継ぎの器に出会ってほしい。そこには、言葉では決して伝わらない、本物の輝きがある。
次回予告(第3回)
「藍と消えない色」
海外のファッション愛好家が、日本の藍染に惹かれている。化学染料への疲れ、そして「植物だけでこの色が出せるのか」という驚き。色をめぐる、もうひとつの物語。