第10回
感動はなぜ購買につながらないのか
前回、私はひとつの逆説に触れた。「最も多く称賛される工芸が最も買われていない」という事実だ。今回はこの逆説を正面から掘り下げたい。日本工芸を世界に届けようとするすべての人にとって、最も実践的な問いだからだ。
数字が示す、奇妙な事実
この連載のもとになったデータには、海外の人々が日本工芸について書いた約8万件のコメントが含まれている。そのなかから「美しい」「素晴らしい」といった称賛の声と「買った」「どこで買える?」といった購買の声をカテゴリごとに集計してみた。
奇妙なことが分かった。称賛の量と購買の量がまったく比例しないのだ。
最も買われにくいのは木竹工だった。組子や指物の超絶技巧は2,000を超える称賛を集め、分野のなかでも図抜けて多い。しかし「買いたい」「どこで買える?」という声に結びつく割合は際立って低かった。
一方、漆芸は逆だ。称賛の総量は木竹工より少ないのに、購買につながる割合は木竹工のおよそ3倍から4倍に達する。称賛と購買はまるで比例していない。なぜこれほどの差が生まれるのか。
「ただ見つめていた」
手がかりは称賛の言葉そのもののなかにある。
木竹工への最も多くの共感を集めたコメントはこうだった。「ロンドンで組子の衝立を見た。親方が一年以上かけて作ったらしい。あまりの美しさに、ただ立ち尽くしてぼーと見つめていた」。別の人は「なぜか分からないけれど、これを見ているだけですごく満たされる」「見ているだけで癒される」と書いていた。
共通するのは、「見る」ことで完結していることだ。すごい、美しい、癒される──その感動は本物だろう。それは「見る」という体験のなかで満たされ、「自分の生活に迎え入れる」という次の段階へは進まない。私たちはしばしば、感動すれば人は買うだろうと考える。しかし感動の多くは、それ自体で完結してしまうようだ。とりわけそれが「鑑賞を目的とする超絶技巧」であるとき。
感動を受け止める「器」
漆芸は、なぜ買われるのだろう。
漆芸への称賛のなかには、こんな言葉が混じっている。「毎日使っている」「自分のデスクの上に置いている」「小さな手の自分でも、毎日使えるサイズを選んだ」。ここに決定的な違いがある。漆芸の感動は「ペン」という、感動を受け止める器を持っていた。urushi の工程に感動した人が、その感動を「毎日手にする一本」として、自分の生活のなかに迎え入れることができる。$300から始められ、使うほどに艶を深め、人生の節目に買い足せる。手元に行き場を持っているのだ。
一方、組子の感動には受け皿がない。一年かけて作られた衝立は数十万円、置き場所を選ぶ。感動を自分の生活に着地させる方法が見当たらない。だから「見つめる」なかで行為が完結し、そこで終わる。感動が購買に変わるかどうかは、感動の強さで決まるのではない。その感動を受け止める、手の届く実物が用意されているかどうかで決まる。
「入口」と「頂」のあいだ
ここからひとつの構造が見えてくる。
買われている工芸には、共通して、エントリーモデルから最高級品までの連続した階段がある。漆の万年筆には、数千円の量産品から数百万円の蒔絵まで、価格の梯子が途切れなく続いている。感動した人は、まず一段目に足をかけ、そして登っていける。
買われにくい工芸は、この階段が切り立った崖のように見えているのではないだろうか。入口の手頃な実用品がないか、あるいは入口と頂上のあいだが断絶している。感動した人は、ただ頂上を見上げて立ち去るしかない。感動を購買に変えたいなら、必要なのは、最初の一段を用意することだ。毎日使えて、手が届いて、しかしその先に、ゆるやかに登っていける階段と頂が見えている。工芸がそれぞれそういう「入口」を持てるかどうか。それが、感動を生活に着地させる架け橋となる。
売るとは、感動と行動のあいだに橋を架けること
感動は概念に似ている。それ自体では生活のなかに入ってこない。感動を購買に変えるとは、感動という概念に実物の着地点を与えることだ。「もっとすごいと思わせる」ことではなく「その感動を、手のひらに乗せられる形にする」こと。感動を煽るのではなく、感動と生活のあいだに橋を架けることだ。そして、その橋は、毎日使えるエントリーモデルであり、登っていける階梯であり、嘘のない翻訳である。
最も称賛される工芸が最も買われない。このパラドクスは、感動はすでにそこにあるという希望でもある。その感動につづく最初のステップを用意するだけなのだ。
次回予告(第11回・最終回)
「西洋が失い、日本が残したもの」
連載の最終回。海外の人々は、日本の継承を、西洋クラフトの衰退と対比して語る。工芸の継承問題は日本だけの課題なのか。それとも世界全体の文化保全への問いなのか。