第9回
日本工芸は、いかに "翻訳" されるか
日本工芸は、海外で常に「翻訳」されている。もちろん言語上の翻訳のことではない。ひとつの文化を別の文化の枠組みのなかで理解し直す、という意味である。あらゆる翻訳がそうであるように、必ずそこには何かが付け加えられ、また省略される。
称賛という名の、もうひとつの誤解
最も多く目にするのは惜しみない称賛である。「日本人は何事も徹底している。中途半端にやらない! 日本で作られたものの動画を見るたびに、異常な細部への注意と、職人技と、伝統への敬意がある」──こうした言葉に何千もの反響が集まる。
オチはこうである。「寿司の米を正しく研ぐ方法を学ぶためだけに、350年も修行しなきゃならないんだから!」。
もちろんこれは愛のこもったユーモアであろう。そしてここに、翻訳のメカニズムがはっきりと現れている。称賛はしばしば誇張へと、誇張は神秘化へと陥る。「日本の職人はすごい」という敬意が、「日本では何もかもが超人的だ」というフィクションに変わっていく。称賛は悪意のない誤解でありうる。話を盛っているうちに、対象を現実から切り離し神話のなかに閉じ込めてしまう。
日本の真の芸術は「マーケティング」だ
翻訳のメカニズムを誰よりも鋭く突いたコメントがあった。京都を拠点にする日本文化の解説チャンネルに、このように書き込まれていた。
「日本人は、自分たちの短所を魔法のように聞こえさせるのが本当にうまい。日本の真の芸術はマーケティングだろう」
辛辣だが無視できない指摘だ。これは、私たち自身への問いでもある。日本工芸を海外に伝えるとき、私たちはしばしば「何百年の伝統」「言葉にできない精神性」などといった、神秘のヴェールをかけてしまう。
前回まで繰り返し観察してきたように、価値の本質は、神秘というよりは具体のなかにありそうである。漆工品の制作に数ヶ月単位の時間がかかる理由、継手が木の動きを受け止める仕組み、60,000時間という修行の単位。これらはまぎれもない事実である。そして説明できる事実のほうがずっと深く人の心に届くだろう。
称賛はなぜ買い物に変わらないのか
翻訳のギャップは、ひとつの不思議な現象を生んでいる。
この連載のもとになったデータを分析すると奇妙なことが判明した。最も多く称賛されている工芸が、最も買われていないのである。
たとえば木竹工──組子や指物の超絶技巧は何千もの「美しい」を集める。けれどその称賛が購買に結びつく割合は、漆芸の4分の1以下だった。
なぜか。
これも翻訳の問題だと考えている。超絶技巧として翻訳された工芸は「鑑賞するもの」として完結してしまう。すごい、美しい、信じられない──そこで感情が満たされ、自分の生活に迎え入れるという発想に至らない。神話は実用性のあるものではないからだ。
一方、漆の万年筆が買われるのは、それが「手の届く神話」として翻訳されているからだ。毎日愛で、コレクションを育てられる。そうして生活のなかに入っていける。
良い翻訳
では、良い翻訳とは何だろう。それは、神秘化することでも、文化的な文脈をすべて削ぎ落として「手工業品」にすることでもない。ここでいう良い翻訳とは、相手の文化の枠組みのなかで理解できる形に変換しながら、誠実に事実を伝えることだ。
藍を「サステナブルな天然染料」と訳すのは、入口としては正しい戦術だ。そこで止めずに「天然の色も、媒染剤という化学との対話から生まれる技術だ」と、正確さを添える。翻訳のギャップは、埋められる。神秘のヴェールを一枚ずつ外し、その下にある事実を、正確に、誠実に示していくこと。それがこれから工芸を語るすべての人に、引き継がれるべき責任だと思う。
最後に、これは私たち自身への戒めでもある。日本工芸を海外に伝える立場にある者は、翻訳者だ。翻訳者には責任がある。話を盛れば短期的にはオーディエンスの称賛を得ることができるだろうが、同時に工芸を「鑑賞するもの」にしてしまう。
次回予告(第10回)
「感動はなぜ購買に結びつかないのか」
本回で触れた「最も称賛される工芸が最も買われない」というパラドクスに正面から向きあう。文化消費の構造と感動が購買に変わるための条件をデータから読み解く。